藤田田〜孫正義も敬愛する日本屈指の実業家〜

藤田田〜孫正義も敬愛する日本屈指の実業家〜

誰もが知るファーストフードチェーン「マクドナルド」。その初代会長を担ったのが、藤田田氏です。

商人の町・大阪府に生まれ、自ら数々の事業を興し、まだファーストフード文化が定着していない日本においてマクドナルドを立ち上げるなど、多くのビジネスを成功に導いてきました。その先見の明は、ソフトバンクグループ株式会社の代表取締役社長兼CEOである孫正義氏の未来にも影響を与えるなど、卓越していました。

『チャンスをお金に変える方法 藤田田の金戦学』(ワニ文庫)、『勝てば官軍 成功の法則』『ユダヤの商法 世界経済を動かす』(いずれもベストセラーズ)など、多くの著書を残しており、今もその経営エッセンスにふれることができます。

2004年死去。享年78。

東大在学中に藤田商店を設立

生まれは大阪市東淀川区(現・淀川区)。高校卒業後、東京大学法学部へ進学。在学中は連合国軍総司令部(GHQ)で通訳の仕事をしながら生活費を稼ぎ、学業に打ち込みます。

ユダヤ商法を学ぶ

そんな中、 仕事中に出会ったユダヤ人たちが、軽蔑されながらも貸金業で財を成し、贅沢な暮らしを謳歌している事実に驚いた藤田氏は、「ユダヤ商法」を学ぶべくGHQ内のユダヤ系軍人とのネットワークを強化していきます。

東大在学中に起業

そして、東大在学中の1950年に「藤田商店」を設立し、高級雑貨の輸入事業をスタート(法人化は1960年)。当時の社員は15人で、大手百貨店に海外の人気ブランドの雑貨や衣料品などを卸していました。

やがて日本有数の実業家として名を馳せる藤田氏の商才は、若い頃からすでにその片鱗を見せていました。

大損しても約束を守る仁義の経営者

しかし、そんな藤田氏の事業も順風満帆だったわけではありません。

1968年。藤田氏は、アメリカのユダヤ系企業「アメリカンオイル」から、ナイフとフォーク合計300万本の大型注文を獲得。製品の製造を岐阜県の業者に発注します。

しかし後になって、船舶での輸送では期限内の納品が難しいことが発覚。飛行機をチャーターすれば間に合いますが、それでは採算が取れない状況に陥ります。

約束は必ず守る

ここで藤田氏は、納期の遵守を優先し、現在の日本円で2,000万円もの資金を費やし、ボーイング707をチャーター。なんとか納品を間に合わせました。その後、翌年にも同様の事態に見舞われて損失を出してしまった藤田氏ですが、この2度の苦境を乗り越えて「フジタは約束を守る」という評判がアメリカに広まったといわれます。

その後、アメリカに藤田商店の支店を出すなど、獲得した信用を足がかりに事業を拡大。会社は順調に成長していきます。

日本マクドナルドの創業

1970年。そんな藤田氏に転機が訪れます。アメリカで展開されていたハンバーガーチェーン「マクドナルド」の創業者、レイ・クロック氏との出会いです。

レイ・クロック氏との出会い

レイ・クロック氏は、日本でのフランチャイズ展開を任せたいと藤田氏に提案。これに対して藤田氏は「アメリカ本社が日本法人に命令しないこと」「アメリカ本社と日本法人の出資比率を半分ずつ折半にする」など強気な逆提案を敢行。またレイ・クロック氏の掲げた「30年で500店舗」という目標に対して「700店舗」まで増やすと宣言。そのいずれも認めさせて、マクドナルドの日本展開に乗り出していきます。

ちなみに「マクドナルド」は和製英語で、英語本来の発音は「ミッドーノゥ」のような音になります。これは「McDonald’s」のカナ表記を考える際、本来の発音忠実な表記を求めたアメリカ本社の反対を押し切って、藤田氏が日本人に親しみやすい「マクドナルド」にしたことに由来しています。

日本マクドナルドの成功!

その後、日本マクドナルドは順調に拡大。ハンバーガーという文化が定着していなかった時代にあって、マクドナルドは人気ファーストフードチェーンとなりました。この成功の要因は、当時の日本人に顕著だった根強い欧米文化信仰を刺激することに成功したためといわれています。

孫正義少年へのアドバイス

そんな藤田氏の著書『ユダヤの商法』を読んで感動し、藤田氏のもとへ押しかけた少年がいました。当時16歳だった孫正義少年です。

孫正義氏との出会い

高校生だった孫氏は「眺めるだけでいいので、3分間だけ社長室に入れて欲しい」という旨のメモを秘書に渡し、15分の面談を勝ち取ることに成功。そこで藤田氏は孫氏に「これから世界を動かすのはコンピュータだ。サイズは今よりはるかに小さくなり、仕事や日常に欠かせないものとなる。だからアメリカに行ってコンピュータの勉強をしなさい」とアドバイスします。

その後、孫氏は藤田氏の金言を受けてアメリカへ留学。カリフォルニア大学バークレー校へ入学するなど現地で知見を磨き、やがてIT業界で素晴らしい功績を打ち立てるに至ります。

ちなみに、孫氏はソフトバンクを立ち上げた後、当時のエピソードを藤田氏に報告へ上がりました。これに感動した藤田氏は、孫氏に自社で使用するPC数百台を発注。また藤田氏がソフトバンクの社外取締役を務めたこともありました。

今も多くの経営者に受け継がれる藤田イズム

順調に成長してきた日本マクドナルドですが、2000年代に入ると、当時の経済状況やBSE問題などで経営が悪化。その責を取る形で、藤田氏は2003年3月の株主総会後に会長職を退任。2004年4月、78歳でその生涯に幕を下ろしました。

藤田氏は日本マクドナルド以外にも、多くのビジネスで成功を収めてきました。平成に入った1989年には日本トイザらス、1991年にはアメリカのレンタルビデオチェーン・ブロックバスター(GEOが買収済み)の日本法人を展開するなど、活躍してきました。

その経営観「藤田イズム」は、今でも多くの経営者に根付いています。リンガーハットなどの代表も務めた八木康行氏、アップルコンピュータから日本マクドナルドを経て、ベネッセ・コーポレーションなどの要職を歴任してきた原田泳幸氏、バーガーキングなどの立て直しに携わってきた藤本孝博氏、現在も最高執行責任者COOとして陣頭指揮を取る下平篤雄氏、そして高校生の時にアドバイスを授かり、日本最大のIT企業を作り上げた孫正義氏など、各業界における藤田氏の教え子たちの活躍はめざましく、藤田イズムの影響力を物語っています。

すでに鬼籍に入った藤田氏ですが、その教えは色褪せることなく、今も多くの経営者にとって至言となっています。