日本NCR、ヒューレット・パッカード、アップルジャパン、日本マクドナルドなど、数多の一流企業を渡り歩いてきた日本屈指の経営者である原田泳幸(はらだ・えいこう)氏。エンジニアからキャリアをスタートし、油田企業の役員へ転身し、その後はファストフード店の経営、さらには教育企業のトップを務めるなど、業界を問わず活躍してきました。
現在は再び飲食業界へ戻り、台湾初のティー専門店であるゴンチャジャパンのトップとして精力的に活動。台湾茶やタピオカを日本に広めています。
『とことんやれば、必ずできる』(かんき出版)、『勝ち続ける経営 日本マクドナルド原田泳幸の経営改革論』(朝日新聞出版)、『原田泳幸の仕事の流儀』(角川書店)など、著書多数。
目次
卓越したビジネスセンスを発揮し、30代で取締役に
原田氏は1948年、長崎県佐世保市に生まれます。長崎県立佐世保南高等学校、東海大学工学部通信工学科を経て、日本NCRに就職。エンジニアとしてビジネスパーソンのキャリアをスタートします。
エンジニアとして社会へ!
エンジニアとして過ごした20代は、「人間は理不尽なことを周りから求められない限り、イノベーションを起こせない」「できないことをやる」「非常識を常識にする」といった価値観を叩き込まれ(プレジデントオンラインより)、この時代が原田氏の挑戦的・革新的な経営スタイルの原点を形作った様子が窺えます。
そんなキャリアが大きく転換されるのが、原田氏が30代に入った頃です。日本NCRから転職した横河・ヒューレット・パッカード(現:ヒューレット・パッカード)で、営業への異動を言い渡された時でした。最初は「技術屋として転職してきた嫌で嫌で仕方なかった」そうですが、それでも仕事を続けているうちに興味を持つようになり、やがてエンジニアから転身します。
経営論やファイナンスを勉強
その3年後、世界最大級の油田開発企業シュルンベルジェへ転職。技術畑の仕事に携わると思っていた原田氏ですが、任されたのは直販部門の立ち上げでした。経営に関する知識がゼロだった原田氏は仕事の傍ら、経営論やファイナンスについて必死に勉強。その努力が実を結び、事業は順調に成長。
その後、30代後半で同社の取締役事業本部長に就任。自身のキャリアが現場から経営に切り替わったのを実感したそうです。
こうした実績がヘッドハンターに注目され、1990年、原田氏はアップルコンピュータジャパン(現:アップルジャパン)へ転職します。
どん底だったアップル日本法人のV字回復を達成
アップルブランドの向上に貢献
ですが、実はもともとアップルコンピュータとは別に紹介されていた企業へ転職するつもりだったという原田氏。しかし「ポジションや待遇は魅力的だったけど、話を聞くうちにワクワクしなくなってきた」ため辞退。まだ日本では無名に等しかったアップルの仕事に魅力を感じ、キャリアを変更したそうです。
入社後、原田氏は同社のPC「マッキントッシュ」のマーケティングに従事。アメリカと日本における文化の違いに戸惑うなど苦労は重ねつつ、日本法人そしてアメリカ本社でマーケティング責任者として、アップルブランドの向上に貢献してきました。
しかし1995年。マイクロソフトが「Windows95」を発表すると、PC市場で一気に劣勢に立たされます。そんな最中の97年、原田氏は再建を託され、日本法人の代表に就任しました。
当時のアップル日本法人は、競合の勢いを前に焦りを募らせ、ブランドの大切さ、顧客志向などは二の次に。とにかく売上・シェアのみを求める営業姿勢に傾いていました。こうした会社状況に、当時アメリカ本社でヴァイス・プレジデント(VP)を務めていた原田氏は怒りを覚えてVPの職を退任。退職を決意します。
しかし直後、本社から「日本法人の社長を任せる」と連絡が入り、原田氏は考えた末これを受諾。改革に乗り出します。
販売戦略の見直しとブランディング戦略
当時の原田氏が手がけた販売戦略の見直し、特に製品の直販化やそれに伴うブランディング戦略は、今のアップルの現場にも息づいています。たとえば、専門店や家電量販店の同社製品販売フロアは、いずれも周囲と雰囲気を画する独特なデザインとなっていますが、これも原田氏の時代から引き継がれている伝統です。
その後、スティーブ・ジョブズの復帰、iMacやiPodなど革新的なアイテムの登場などが矢継ぎ早に発表され、アップルの快進撃が始まります。それまでのPCをPC単体として販売するスタイルから、音楽なども巻きこんだ生活全般に根付いた製品展開へ軸を移し、多くのファンを獲得していきました。結果、赤字続きだった日本法人は8年連続でプラス成長を記録。文字通りのV字回復を達成しました。
突然の「マックからマックへ」の転身
ところが、アップルジャパンが順調に成長していた2004年。原田氏はいきなり日本マクドナルドホールディングス株式会社へ転身。同社のアメリカ本社からヘッドハンティングされたのがきっかけだったといいます。アップル主力製品Macintosh(マッキントッシュの愛称が「マック」であったことから「マックからマックへ」と話題を呼びました。
転身直後、日本マクドナルドは値上げやBSE(牛海綿状脳症)による顧客離れに歯止めがかからず、業績不振に苦しんでいました。
アップルに続いてV字回復!
そんな中、原田氏は、店舗業務の平準化、サプライヤーの見直し、人員配置の見直しや不要人材の削減、フランチャイズ戦略の見直しなどを実施。従来の日本的な大家族主義経営を見直し、アメリカ本社のスタイルを取り入れて経営を刷新します。
結果、2010年には売上高が5,427億円と過去最高を記録。アップルに続いてV字回復を達成しました。
原田マジックと呼ばれて
しかし、この「原田マジック」とまで呼ばれたマクドナルドのV字回復も、平坦な道のりではありませんでした。
それまでのマクドナルドの経営スタイルは、創業者の藤田田氏が築き上げたもの。この伝統を変革するという原田氏の戦略は、社内で多くの反発を呼びました。特に藤田氏を信奉する派閥からの批判は苛烈で、社内を怪文書が飛び交う内部闘争にまで発展したほどだといわれます。
その後、待ち時間短縮のためにレジカウンターからメニューを撤去するなど、施策のいくつかが顧客から不評を買ってしまい、ブランドが失墜。社内での求心力を失っていきます。そして2012年12月、営業減益となり、2014年3月にサラ・カサノバ氏へ社長職を譲り、自身は代表権のない会長職へ就任。経営の第一線から退きました。
タピオカブームの救世主となれるか
その後、2014年にベネッセホールディングスの代表取締役会長兼社長に就任しますが、直後に個人情報漏洩問題が発生。いきなり苦境に立たされ、問題の解決に奔走。結局、目立った実績は残せず、2016年に同社の代表を退きます。
その後、いくつかの会社の顧問や経営者の育成などに携わり、2019年に台湾茶チェーン「貢茶(ゴンチャ)」日本法人(株式会社ゴンチャジャパン)の代表取締役会長兼社長兼CEOに就任します。さまざまな業界で見せた「原田マジック」は、一過性のブームと思われていたタピオカを救うのか、プロ経営者の手腕に注目です。